介護の終わりを願うということ

終末期医療の病院に転院が決まり、事前の手続きも無事に終わりました。車椅子での転院となりますので、介護タクシーの手配をしました。付き添いには、息子である夫ではなく、日頃お世話をしている私が乗ります。山手にある転院先に向かう道すがら、車の窓から見える久しぶりの外の景色に、おばあちゃんは入院時には見られなかった笑顔で「どこへ行くの」と私に話しかけてきます。本人には認知症と伝えてありませんので「糖尿病が悪くなったので転院しますよ」と、胸が少し痛みましたが、お答えしました。それを5,6回ほど繰り返した頃、病院に着きました。

入院生活にも慣れたのか、病室が広々と綺麗だったためか、おばあちゃんは何の不満を述べるでもなく、スムーズに転院は完了しました。自家用車で来ていた夫が家に向けて車を出した時、認知症の初期から数えて7年に及んだ私の介護が終わりました。

今わたしは、近くに住む娘が産んだ孫を時々預かりお世話をしています。生まれて間もない赤ん坊を腕に抱きながら思うのです。人はこうして人の腕の中で少しずつ色々な事を覚えていき、成長する。そして80年ほどの後には、少しずつ何かが衰えていき、また、人の腕の中に戻っていくのだと。

介護が大変になった時、施設や病院に介護を任せることに罪悪感を持つ方もいらっしゃるでしょう。しかし、赤ん坊が病院で生まれ、例えば未熟児でケアが必要な場合しばらく入院するように、医的ケアが必要になったり、脳の病気である認知症で在宅介護が難しくなった時、病院でケアを受けながら余生を過ごしてもらうのは、まさに赤ん坊と反対の過程を辿っているに過ぎないように思えるのです。妊婦と胎児が健康で自宅出産を選ぶ人がいるように、介護する人される人共に心身が健康で事情も許すなら、在宅で最後まで介護することも可能でしょう。しかし、人生の最終章を迎えた時、何処でどのように過ごせるのかは、本人の意志よりも、結局その人とお世話する人双方の心身の健康状態次第としか言えないのではないか・・・介護を終えた今、そう思います。

育児には、できるようになっていく喜び、成長していく楽しさがあります。育児と反対の過程を辿る介護には、本人にも、お世話をする人にも、哀しみと痛みが伴います。育児には成長の道筋が見えますが、介護は先が見えません。

肉親の介護を、苦労をも厭わず愛情こめて献身的に行われている方々もいらっしゃるでしょう。しかし、長引く介護に疲労困憊した日々にあれば、おそらく誰もが、その終わりを願う瞬間を経験すると思います。そして、そう願ってしまった事に、多かれ少なかれ罪悪感を持ってしまうのです。それは「介護の終わり」イコール「死」と思っているからです。実際のところ、そうなる事の方が多いかもしれません。しかし、私のような介護の終わりもあるのです。辛い日々が終わって欲しいと願う事は、必ずしも「死」を願う事ではないと、この例を思い出してほしいと思います。願う事すら禁じてしまうと、もっと辛くなってしまいます。

この介護日記を書き始めたのはちょうど三年前。おばあちゃんが入院したのは、その年の秋でした。そして、お正月明け、ひと月ほどで終末期医療の病院に転院して、介護が終わりました。それから随分時間がありましたが、記事を書きませんでした。長い間持てなかった自分の時間と、自由を、介護から離れたところで使いたかったのだと思います。

今もおばあちゃんは安定した状態で入院しています。素人の介護では、チューブの抜去などに対応できず、このような安定を保つのはとても無理だったでしょう。長生きしてほしいという息子である夫の願いは叶っています。そして嫁の私は、できる限りのお世話をしたという達成感、というと語弊がありますが、少なくとも、出来なかった、しなかったという後悔をしなくて済みました。大変な日々ではありましたが、今となっては人生の大切な経験だったと思います。

私の経験が、どなたかのお役に立てれば幸いです。今、奮闘されている介護が、いつか向かうべき方へ向かい、お世話する方もされる方も、穏やかな日々を迎えられますようお祈りして、おばあちゃんの介護日記を閉じたいと思います。

拙い文をお読みいただき、有難うございました。

 

 


終末期医療の病院

胃ろうの造設を断念したおばあちゃんは、経鼻栄養を継続し、終末期医療の病院に転院することが決まりました。我が家のある長崎県大村市は、まだ土地に余裕があるためか、老人養護施設が次々に建設され、デイサービスやショートステイに対応できる施設がたくさんあります。入居できるホームも多い方ではないでしょうか。しかし、医的ケアが必要で、重度の認知症患者も受け入れてもらえる終末期医療の病院は、私の知るところ一軒です。そこは古くからある病院で、前身は精神科のみの病院だったと聞いていました。その患者さん達が病気や高齢化で入院が必要になった時に対応できるよう内科も併設したと、入院時の説明で伺いました。当然、入院待ちがあるのですが、重度の人は優先されるようで、おばあちゃんは程なくそこに入院できることになりました。

入院に際する手続きのため、転院前に夫と一緒に初めてその病院に足を踏み入れました。精神科の病棟は昔ながらの古いものでしたが、おばあちゃんが入院する病棟は比較的新しくきれいです。早速事務室で、お医者様からの説明とスタッフからの聞き取りがありました。お医者様は、そこが終末期医療の病院であり、延命治療をしないことを丁寧に説明されました。それは例えば、呼吸困難に陥ったとしても、救急車を呼んで救命することはないという事です。あくまでも、終末期に必要なケアをしつつ、穏やかに最期を迎えるための病院であると。その他のお医者様からの説明は、一般の病院と同じく、必要があればミトンなどを付けさせてもらう等、同意書にサインの必要な事柄でした。

胃ろうの造設の一件以来、夫は以前の考えを変えて延命治療を望み、その方向で動いてきましたが、それを断念せざるを得なくなり、考えは元に戻ったようでした。お医者様の話を納得しながら聞き、全ての項目にサインをしました。

その後、スタッフからの聞き取りが始まりました。それはおばあちゃんの生い立ちに始まり、趣味や特技など、詳しく聞かれます。おばあちゃとの会話の参考にされるのでしょう。そんなスタンスにも、非常に好感を持てました。聞き取りが終わると、病室やお風呂、食堂などを案内されましたが、どこも広々として清潔です。お風呂は二日に一度入れていただけるとのこと、ケアも行き届いていることに安心しました。

一連の手続きが終わり病院を後にする時、私の役割が終わるのだという実感が、少しづつ、ようやく現実味を帯びてきました。


認知症患者に胃ろうを造設するということ

さて、外科的手術も受け入れ胃ろうを造設することを、夫は決断しました。おばあちゃんは夫の母ですので、決断は夫がすべき事でしょう。しかし介護するのは、嫁である私です。経済的な事情もあり、仕事を辞めるわけにはいきません。自宅で夜に開いている小さな塾ですので日中の介護はできますが、それなりに時間も労力も必要です。介護、家事、仕事、子供の事、やるべきことが沢山ある中で、医療的ケアも加わって、果たして素人の私に、その全てができるのでしょうか。それまでの介護生活でさえ、疲労困憊していました。考えれば考えるほど、不安が増していきます。

そんなある日、元看護士の友人と話す機会がありました。おばあちゃんに胃ろうを造設して自宅で介護すると話すと、「それは本当に大変だ」と言います。「大丈夫ですよ」と在宅医療を推進する人々ではなく、実際にそのような患者さんを看護した経験者です。彼女によると、認知症の患者さんが、造設した胃ろうのカテーテルを抜いてしまうことは日常茶飯事で、抜かれたものは元に戻さなければならない。けれど、それがなかなか上手にできず、とても苦労したと。自分の力不足であったが何しろ大変だったと、その経験を話してくれました。

事故や病気で食事を摂れなくなってしまった患者さんが、胃ろうを造設してその機能を補い在宅で療養することは、ひとつの医療の方法として大変有効であろうと思います。しかし、判断力の衰えを伴う認知症の患者さんに関しては、カテーテルを自ら抜去してしまう危険が伴います。自宅で介護する間ずっと、その危険への警戒と、実際に起こった場合の対処に追われることは容易に想像できます。友人は力不足だったと謙遜していましたが、看護士だった友人より上手に対処できる自信は全くありません。友人の話を聞いて、ますます不安しかない状態に陥り、新年を迎えました。

予定ではお正月明け、病院が再開してすぐに外科の先生と面談し、手術について相談する事になっています。なるようにしかならない、と若干なげやりな心境で過ごしていたところに、病院から電話がありました。外科の先生です。

先生曰く、「胃ろうの造設は難しいようです」「経鼻栄養でも、自宅での介護は無理でしょう」

年末年始の業務中、巡回で何度かおばあちゃんを診た外科の先生は、上手に経鼻栄養のチューブを抜き、決しておとなしく横になっていない様子を見て、そう判断されたのでした。医的にはもちろん、介護する側の精神的負担を慮ってそのように言って下さったことを、本当に有難く感じました。

結局、外科の先生の提案を夫は受け入れ、胃ろうの造設を断念。経鼻栄養の状態で受け入れてくれる終末期医療の病院に、転院することになりました。